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MADE IN 四国
四国の東部に位置する徳島県。
古くは阿波国と呼ばれていました。
江戸時代の阿波国は藍作が主要な産業でした。
背景には大坂周辺で綿花の栽培が盛んになり、綿の染料としての需要が高まっていったのです。
東西に流れる吉野川は当時、堤防が築かれておらず毎年台風の時期には氾濫し大洪水を起こしていました。
台風は稲刈りの時期に来ることが多く、台風の時期以前に
収穫の行われる藍作は稲作よりも阿波国に適した産業だったといわれています。

Lee MADE IN 四国プロジェクトでは、
現在5人しかいない数少ない藍師の一人である新居 修さんが魂を込めて作る藍とタッグを組み、
「ジャパン・ブルー」デニムの開発を開始しています。
 藍の魅力はなんといっても、繊細な色合いが出せる点です。青は青でも無数に色を表現できます。人によって好みの色合いがありますからね。そんなニーズに応えられたことが、「染め屋」を「紺屋」と呼ぶほどに、「藍染め」が普及した理由の一つなのだと思います。江戸時代ごろまでは、藍染めは庶民の作業服から貴族の高級衣装、寝具などの生活用品まで、あらゆるものに利用され、日本人の暮らしを彩ってきました。ここ徳島県板野郡藍住町は、藍染めの染料である蒅(すくも)作りの日本一の産地で、明治以前は地元の藍商人が全国各地に売りに回りました。現在でも徳島産の蒅は本藍と呼ばれ、他の地方の地藍に比べ価値のあるものとして取引されます。
 藍染めがたくさんの色を出せるのは、染料を天然物から作っているからです。染料の素となる藍はタデ科の植物です。それを栽培して染料である蒅に手作業で加工するので、その年の天候によって植物自体のできが違います。それに、蒅は藍の葉の中にいる菌を発酵させて染料にします。生き物を相手にするので、厳密に毎年同じものができることはありません。
 蒅加工において、もっとも神経を使う工程が発酵作業です。小さく切り刻んだ藍の葉を寝床と呼ばれる部屋で広げ水を打ち、発酵をまんべんなく進むように山積みにしたり、山を20回ほど移動する作業を100日間程度かけて行います。蒅の発酵温度は70度以上になります。昔は、この作業を専門に行う水師がいました。気温や温度、発酵の状態を経験から読み取り、水の量や藍を積む山の高さなど、寝床での作業のすべての判断を任せられた技術者です。水師の判断はその年の蒅のでき具合を左右する重要なポジションであり、腕の良い人は何件もの藍農家の寝床を担当していました。しかし、藍染めの需要の減少とともにいなくなってしまいました。
 私のような藍を育てて収穫し、蒅を加工する職人を藍師と呼ぶのですが、現在ではこの地域で5人だけです。明治後期にドイツから安価な化学染料が輸入され藍染めは衰退しました。最盛期に1.5万ヘクタール(1.5億㎡)近くあった藍の作付面積は、昭和40年頃には4ヘクタール(4万㎡)まで落ち込んだといいます。
 国内の経済が落ち着いてきて少しずつ回復してきましたが、値段の問題もあって昔のように大量に出回ることはありませんね。それでも最近は、大学などで藍の研究が進んで、藍には殺菌効果があることが証明され、これまでになかった健康や医療面からの需要が生まれています。例えば、藍の中にいる「トリプタンスリン」という成分は、アトピー性皮膚炎の治療に使う「硝酸ミコナゾール」より約6倍もの抗菌性があります。
また、漢方薬としても利用される藍には薬効効果があり、きり傷や虫刺され、あせも、かぶれなどに効果があるとされています。昔、武士が鎧の下着に、庶民が作業着に藍染めを愛用していたことを考えると、そういったことをよく知っていたのでしょう。最近になって効能が科学的に証明されて、天然素材ゆえの藍染めの良さが再評価されています。
 藍染めは日本の伝統ですからね。なんとか残して行きたいんですよ。正直、厳しい面もあります。しかし、だからといって辞めてしまうと、自分を頼りにしている染め屋さんに対して申し訳ないし、藍染め商品を待ってくれている方にも残念な思いをさせてしまいます。私たちは染め屋さんに蒅を作って渡すことを「満足を贈る」と表現します。丹精込めたものを顔が見える間柄で、お互いを思ってやり取りするという古き良き日本の文化も、藍染めとともに次の時代に残して行きたいと思っています。